冷戦下で「認知戦」という言葉はまだ存在しなかった。
だが、後にその輪郭となる概念は、軍でも情報機関でもなく、ロンドン🇬🇧の研究所から生まれていた。
崩れる社会での行動予測
1967年、心理学者エメリーは論文「次の三十年:概念・方法・予測」を、所属していたタヴィストック人間関係研究所の機関誌「Human Relations」に発表した。

設立時の運転資金は1946年、🇺🇸ロックフェラー財団が「社会精神医学と予防的精神医学」の名目で提供しており、その後は英政府や多国籍企業、のちには欧州連合との契約が収入の柱になっていった。
研究所の設立文書に署名したハーグリーブスは、のちに世界保健機関(WHO)の事務局次長となった。母体となった陸軍精神医学グループに属していたリースは、世界精神保健連盟の初代会長となった。
この論文自体は、特定の相手を陥れるための攻撃指南として書かれたものではない。
タイトルが示す通り、社会の将来を予測する研究として書かれている。研究所が手がけていた社会技術システム論、つまり組織とその周囲の環境がどう影響し合うかを分析する方法論の延長線上に位置づけられる仕事だった。
エメリーが目指したのは、変化の速度が増していく環境の中で、組織や社会がどう適応していくかを予測することだった。
論文の中核にあるのが、エメリーが「乱流場」と呼んだ概念である。
家族や教会、地域社会といった従来の社会的な安定要因が崩れ、変化の速度が組織の適応能力を追い越したとき、人や組織はどう振る舞うか。荒れた海で舵を失った船が波に流されるように、環境そのものが個々の意思決定を押し流していく状態を、エメリーは「乱流場」と名付けた。
エメリーは、この乱流場のもとで人々が取る受動的な適応を、三つの型に整理している。
第一は表面化と矮小化。何が起きても深く関わらず、選べる範囲だけを広げて満足してしまう反応である。
第二は分裂。組織や社会の一部が全体から切り離され、断片同士がばらばらに動き出す状態を指す。
第三は乖離。他者の行動がもたらす結果を、自分の行動の前提として考えなくなる反応である。
エメリーは、この三つが互いに排他的ではなく、補い合いながら同時に進むと述べている。
ロンドンの研究所は、社会が乱流の中でどう崩れていくかを、半世紀も前に型として描き出していた。認知戦という言葉が生まれる、はるか手前でのことである。
スマホの中で、社会はすでに壊れている
タイムラインを流し読みして、深く考えずに次の投稿へ指を滑らせる。気になるニュースがあっても、選べる範囲だけ広げて満足し、それ以上は関わらない。
家族のグループチャットで、政治の話題が出た途端に発言が止まる。以前は雑談していた場が、いつの間にか一部の人だけのやり取りに変わっている。
意見の違う相手を、投稿を読む前にブロックする。相手がどう反応するかを考えることすら、もうしない。
これらは今、多くの人が経験している光景である。エメリーは1967年、こうした反応を表面化、分裂、乖離という三つの型に整理していた。
こうした反応は、外側から意図的に引き起こされることもある。
ハッキングされた内部文書が、匿名で拡散する。真偽の確認が追いつかないまま、疑いだけが広がる。
同じ出来事について、まったく違う二つの見出しが同時に流れる。どちらを信じるかで、周囲との会話が噛み合わなくなる。
コメント欄が二つの陣営に分かれ、互いに罵り合う。以前は近所づきあいをしていた人同士が、政治の話題をきっかけに口をきかなくなる。
これらの効果を、ジョンズ・ホプキンス大学とインペリアル・カレッジ・ロンドンの研究チームは2021年、「認知戦への対抗:啓発とレジリエンス」と題する記事にまとめ、NATOの公式誌「NATO Review」に発表した。
この記事は、認知戦がもたらす効果として次の五つを挙げている。
疑念を撒くこと、
矛盾するナラティブを持ち込むこと、
世論を分極化させること、
集団を過激化させること、
結束していた社会を断片化させる行動へ動機づけること、
である。
エメリーの三つは、環境の圧力に人が押し流された結果として書かれている。
NATOの五つは、狙って引き起こす効果として書かれている。
エメリーとNATOが描いたのは、社会が受動的に、あるいは仕掛けられて分裂していく過程だった。だが同じ頃、この分裂状態そのものを戦術として積極的に使う発想も、別の場所で練られていた。
NGOは紛争勢力だった
2000年、米国防総省と関係の深い政策シンクタンクであるRAND研究所は、「スウォーミングと紛争の未来」という文書をまとめた。
発注元は、指揮・統制・通信・情報を担当する米国防次官補室である。プロジェクト名は「スウォーミングと情報作戦」といい、研究は国防総省が資金を提供する国防研究所の国際安全保障・防衛政策センターで実施された。1990年代に進んだ情報革命が、紛争のあり方をどう変えつつあるかを分析することが目的だった。
著者のアーキラとロンフェルトは、これを『スウォーミング』と呼んだ。
軍の部隊であれ、人々の集まりであれ、小さな単位をあちこちに分散させておき、狙いを定めた瞬間に四方八方から一斉に集まって行動を起こし、終われば散って身を隠し、また集まり直す。
大きな組織を一箇所に集めてそこに居座り続けるやり方とは違う。一見するとまとまりのない動きに見えるが、実際には綿密に計算され、調整された行動であり、力は一箇所に留まり続けるのではなく、この『集まっては散る』動きを繰り返しながら加えられていく。
この文書は、スウォーミングという手法が、低強度の紛争から高強度の戦争まで、市民の行動から陸海空の軍事作戦まで、紛争のあらゆる領域に適用されうると分析している。
そのうえで文書はこう述べている。今のところスウォーミングを最も明確に体現しているのは、軍事的な実例ではなく、国境を越えて連携する活動家NGOのネットワークである。
文書はこの手法の一例として、セルビアに触れている。ミロシェビッチ政権が地方選挙の結果を無効にしたことに対し、抗議する市民が繰り返し大規模な集会を成功させてきたと記す。さらに、反ミロシェビッチ勢力が、デモ隊を守るためにサッカーのフーリガン集団を動員しようとしている動きも記録している。
この文書が出版されたのは2000年である。
同じ年の10月、セルビアではミロシェビッチ政権が倒れた。RAND研究所は、政変が起きる前の段階で、すでにこの動きを紛争の一形態として観察していたことになる。
「ロシアの偽情報から守る」装置
RAND研究所が描いたスウォーミングの構図は、14年後、まったく別の当事者によって現実の政策として動き出す。
「ロシアの偽情報から民主主義を守る」。この名目のもとに、2014年9月から2017年4月までのあいだに、少なくとも5つの機関や部隊が新設された。
きっかけとなったのは、2014年2月のロシアによるクリミア併合と、ウクライナ東部での軍事行動である。
この後の32か月で、似た目的を掲げる機関が、重なる顔ぶれで次々に立ち上がることになる。
同年9月5日、NATOはウェールズ・サミット宣言を発表し、これをヨーロッパの安全保障を根本から揺るがした出来事として名指しした。同盟の即応性を高め、偽情報の拡散やサイバー攻撃を組み合わせた攻撃=ハイブリッド脅威への対応を強化することが、宣言の柱の一つになった。
2014年7月、ラトビアの首都リガに、NATO加盟国が共同で運営する研究・研修機関「戦略的コミュニケーション卓越センター」が動き、9月のウェールズ宣言はそれを追認した。
2015年1月、英国陸軍は第77旅団の創設を公表した。フェイスブックやツイッターといったソーシャルメディアを使い、非殺傷型の心理戦を担う部隊である。
2015年、EUもロシアの偽情報対策の部署を置いた。
2016年3月、オバマは大統領令に署名し、国務省内に、偽情報対策を専門に担う部署「グローバル・エンゲージメント・センター」を設置するよう指示した。
7月のワルシャワ・サミットでNATOはハイブリッド脅威への対応を正式に約束し、2017年4月、ヘルシンキにハイブリッド脅威対策卓越センターが開いた。
リガとヘルシンキには、同じ加盟国が重なって入っている。32か月のあいだに、似た名目の機関が、重なる顔ぶれで次々に立ち上がった。
民主主義を守る装置が、加盟国の国民へ向かっていた
英国の外交政策シンクタンク「統治術研究所」は、インテグリティ・イニシアティブというプロジェクトを運営している。2018年11月、この研究所がハッキングを受け、内部文書がインターネット上に流出した。
流出文書が示したのは、政治家、ジャーナリスト、学者、研究者、軍人からなる国際的なネットワークだった。文書ではこのネットワークを「ネットワークのネットワーク」と呼んでいる。資金の出所として、英国外務省、NATO、フェイスブックの名が挙がっていた。
流出文書には、具体的な標的も記録されていた。スペインでは、国家安全保障局長に指名されていたバニョスに対し、「親クレムリン」というレッテルを貼るキャンペーンが展開され、指名は撤回に追い込まれた。
同じ手法は、英国国内にも向けられていた。当時の野党第一党・労働党党首コービンに対しては、その信頼を切り崩す情報の拡散が繰り返し記録されていた。
流出から1か月近くが経った2018年12月10日、英国外務省は調査を開始したと発表した。
その2日後、12月12日には英国議会下院で緊急質問が行われた。外務省で欧州を担当する大臣は、統治術研究所が数週間前にハッキングされ、流出文書がクレムリン系メディアを通じて拡散されたと説明した。この大臣はこの拡散を、ロシアの偽情報活動の一環と位置づけた。
議場では、資金の出所についても質問が出た。大臣は、外務省が今年度、統治術研究所に約200万ポンドの助成金を交付していることを明らかにした。契約には、この助成金を英国内の政治活動に使ってはならないという条項が明記されている、とも述べた。
政府側の説明は、一貫していた。これはロシアによる偽情報活動であり、統治術研究所は独立してその脅威に対処してきた組織である、というものである。
流出文書に記録されていたのは、これとは別の姿だった。国内の野党党首や、同盟国の政府人事を標的にした、資金提供者を持つネットワークの活動記録である。
政府答弁の10か月後、この団体を調べていたスコットランドの規制当局が結論を出した。2019年10月、統治術研究所の目的は「完全には公益目的ではなかった」とし、インテグリティ・イニシアティブという活動自体が「団体の目的に資する公益をもたらしていなかった」と認定した。
受託者の義務違反も、一部は重大な程度に至っていたと指摘している。統治術研究所はこの活動から手を引き、受託者2名が辞任した。
ロシアの偽情報から民主主義を守るはずの装置が向けていた先は、NATO加盟国内の言論にも向けられていた。
次回、この装置がNATOで正式化された経緯を追う。
参考文献
Emery, F. E. (1967) The Next Thirty Years: Concepts, Methods and Anticipations
1967年、タヴィストック人間関係研究所の機関誌に掲載された原論文。乱流場および受動的適応の三類型の一次資料。
https://journals.sagepub.com/doi/10.1177/001872676702000301
Asymmetric Leadership (reprint) The Next Thirty Years: Concepts, Methods and Anticipations
上記論文の全文PDF再録版。乱流場の定義および三類型の原文該当箇所の確認に使用。
Tavistock Institute of Human Relations, Our story
タヴィストック人間関係研究所の設立年(1947年)および事業内容の確認に使用。

Wellcome Collection, Tavistock Institute of Human Relations: correspondence with the Rockefeller Foundation 1946-1948
研究所の設立助成に関する往復書簡。ロックフェラー財団による資金提供の名目確認に使用。
https://wellcomecollection.org/works/b4a78x8v
Tavistock Institute, Tavistock Archive
研究所の顧客層(英政府・多国籍企業・欧州連合)の確認に使用。
https://tavinstitute.org/tavistock-archive
Mulberry Bush Archives, Tavistock Institute of Human Relations biographical index
研究所の母体となった陸軍精神医学グループの経緯、設立文書署名者ハーグリーブスの世界保健機関事務局次長就任、母体グループ所属者リースの世界精神保健連盟初代会長就任の確認に使用。
https://archives.mulberrybush.org.uk/names/78a664b9-d9da-4226-8bff-0fca2204b3d9
NATO Review (2021/05/20) Countering Cognitive Warfare: Awareness and Resilience
ジョンズ・ホプキンス大学およびインペリアル・カレッジによる寄稿。疑念・矛盾するナラティブ・分極化・過激化・社会断片化への動機づけ、五つの効果の一次資料。https://web.archive.org/web/20250402203501/https://www.nato.int/docu/review/articles/2021/05/20/countering-cognitive-warfare-awareness-and-resilience/index.html
RAND Corporation (2000) Swarming and the Future of Conflict
アーキラとロンフェルトによるスウォーミング概念の提示文書。発注元・プロジェクト背景・セルビア言及箇所の一次資料。
https://www.rand.org/pubs/documented_briefings/DB311.html
NATO (2014/09/05) Wales Summit Declaration
ロシアのウクライナに対する行動への対応であることの明記、および戦略的コミュニケーション卓越センター歓迎の記述を含む核心資料。
https://www.nato.int/cps/en/natohq/official_texts_112964.htm
British Army / BBC News (2015/01/31) Army sets up new brigade ‘for information age’
第77旅団の創設公表。ソーシャルメディアと非殺傷の心理作戦を担う部隊であることの確認に使用。
https://www.bbc.com/news/uk-31070114
NATO Strategic Communications Centre of Excellence, About NATO StratCom COE
リガのセンターの設立国(7か国)、覚書署名日(2014/7/1)、NATO認定日(2014/9/1)の確認に使用。
https://stratcomcoe.org/about_us/about-nato-stratcom-coe/5
European External Action Service, Questions and Answers about the East StratCom Task Force
東方戦略コミュニケーション・タスクフォースの設置根拠(2015年3月の欧州理事会)の確認に使用。
https://www.eeas.europa.eu/eeas/questions-and-answers-about-east-stratcom-task-force_en
Federal Register (2016/03/17) Executive Order 13721—Developing an Integrated Global Engagement Center
グローバル・エンゲージメント・センター設置を指示したオバマ大統領令(2016/3/14署名)の原文。
https://www.federalregister.gov/documents/2016/03/17/2016-06250/developing-an-integrated-global-engagement-center-to-support-government-wide-counterterrorism
Hybrid CoE, Establishment
ハイブリッド脅威対策卓越センターの設立日(2017/4/11)、最初の参加9か国、EU理事会・北大西洋理事会による2016年12月の承認の確認に使用。
https://www.hybridcoe.fi/establishment/
The Grayzone (2018/12/17) Inside the temple of covert propaganda: The Integrity Initiative and the UK’s scandalous information war
統治術研究所のハッキング流出文書を整理した分析記事。「ネットワークのネットワーク」、資金源、スペイン・英国国内での標的化の二次資料。

UK Parliament, Hansard (2018/12/12) Institute for Statecraft: Integrity Initiative
英国議会下院での緊急質問記録。政府側答弁とNATO資金提供の言及の一次資料。
https://hansard.parliament.uk/commons/2018-12-12/debates/298F9A3C-307A-40ED-9CB1-3B2A98F14165/InstituteForStatecraftIntegrityInitiative
The Ferret (2019/11/05) Scottish charity watchdog damns group that attacked integrity of politicians
統治術研究所に対するスコットランド公認慈善団体規制局(OSCR)の調査結果を報じた記事。認定内容(公益性の欠如、受託者の義務違反)とその後の経緯(活動終了、受託者辞任)の一次資料。
https://www.theferret.scot/charity-statecraft-integrity-corbyn/



