孫子とベーコンの情報戦

「戦わないための知恵」と「征服のための知識」

気に食わない「ベーコンの情報帝国主義」について考えを巡らせているとき、対になる東洋の戦略家が頭に浮かんだ。

孫子だ。

「戦わずして人の兵を屈する」、という言葉が彼の哲学の核心にある。

前回のベーコン論で描いた「知識による支配」の論理と、この一句を並べてみると、奇妙な共鳴が聞こえてくる。両者とも「情報こそが力だ」と知っていた。両者とも、それを組織的に追求した。だが、その目的は、180度異なっていた。

今回は、東洋と西洋それぞれの思想的源流から、現代の情報戦がどのような顔をしているのかを論考したい。

孫子という男

紀元前6世紀頃の中国、春秋時代。

孫武という名の軍略家が著した『孫子兵法』は、2500年を経た今も世界中の軍事学校で読まれている。

その核心は、ひとつの逆説に尽きる。最良の戦争とは、戦わない戦争だ。

「百戦百勝は、善の善なる者に非ず。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」。百回戦って百回勝つことは、最善ではない。戦わずに敵を屈服させることこそが、真の最善だ、と孫子は言う。

なぜか。孫子は現実主義者だった。

戦争はコストが高い。兵站は消耗し、兵士は死に、国力は削られる。たとえ勝利しても、その後に残るものを考えれば、そもそも戦場に出ること自体が下策になりうる。だから彼は、情報戦と心理工作を戦略の中核に置いた。

「兵は詭道なり」。孫子の戦いの本質こそ情報戦そのものだ。

五種の間諜、生間・死間・反間・内間・郷間を使い分け、敵の内部情報を掌握し、偽情報で判断を狂わせ、戦意そのものを崩壊させる。物理的な衝突の前に、すでに勝負をつけておく。

孫子にとって情報戦は、戦争を「しないための道具」だった。

この思想の背景には、春秋から戦国へと続く古代中国の苛烈な現実がある。

諸侯国が乱立し、同盟と裏切りが繰り返され、一度の敗戦が国の消滅に直結する時代。そのなかで磨き抜かれた知恵が「不戦而勝」だった。戦国時代は、文字通り戦いの絶えない時代だ。

だからこそ、その只中から「なるべく戦うな」という哲学が生まれた。この逆説を、もう少し噛み締めておく必要がある。

孫子の思想は「柔」だ。

状況に応じて形を変える水のように、固定した戦略ではなく、相手と場の変化に即応する柔軟性を説く。「奇正の変は、勝げて窮む可からず」。奇策と正攻法の組み合わせに、固定した型はない。敵に読まれた瞬間、戦略は死ぬ。

ベーコンとの対比:剛と柔、征服と回避

フランシス・ベーコンについては前回の記事で詳しく論じたが、ここで改めて孫子との対比を整理したい。

両者に共通するのは「知識は力だ」という確信だ。

孫子は「敵を知り己を知る者は危うくならない」と説いた。ベーコンは「知識そのものが力だ」と宣言した。情報の収集・独占・運用が優位をもたらすという認識は、東西どちらも同じだ。

だが、その先が決定的に違う。

孫子の知識は「いかに戦わないか」のためにある。

敵の内部を把握し、心理を操り、戦意を崩す。目的は最小のコストで国家の安全を確保すること。物理的な衝突は、あくまで情報戦が失敗したときの「下策」だ。

ベーコンの知識は「いかに征服するか」のためにある。

他国の技術を秘密裏に収集し、科学的優位を築き、植民と侵略を効率化する。リアルな戦争や支配は回避すべきものではなく、知識によって正当化・合理化される「進歩の過程」だ。

孫子:戦争を避けるための道具として情報を使う。 

ベーコン:情報は征服を成功させるための道具として使う。

東洋的な「柔の戦略」と西洋的な「剛の征服」は、ここで分岐する。

もうひとつの根本的な違いは、何を「支配の対象」とするかだ。孫子が操るのは人間の心理と関係性だ。敵の判断を狂わせ、内部分裂を誘い、同盟を崩す。自然そのものへの侵略という発想は、孫子にはない。

ベーコンは違う。彼の「自然の拷問」という言葉が示すように、大地・資源・そして現地の人間もまた「実験と搾取の対象」として位置づけられた。科学的合理性という名の下に、生きている世界を支配の素材へと変換する。

この発想が、大英帝国の植民地主義と完全に重なっていたことは、前回記事で述べた通りだ。

二つの思想がサイバー空間で交錯する

情報戦には、二つの顔がある。

ひとつは「持ち帰る」ための諜報、もうひとつは「動く日のための潜伏」だ。

ひとつは、ファイブアイズだ。

米・英・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド。アングロサクソン系5カ国だけで構成されるこの諜報同盟は、エシェロンと呼ばれるグローバル通信傍受システムを運用している。冷戦期にソ連監視のために構築されたこのシステムは、冷戦終結後、照準を同盟国の政府・企業・個人へと静かに移した。

2001年の欧州議会の正式調査は、その実態を記録している。エアバスとサウジアラビアの大型契約交渉でNSAが通信を傍受し、情報を米国企業側に渡した。60億ドルの商談が、「光」として持ち去られた。2013年スノーデン暴露では、ドイツのメルケル首相の携帯電話が10年以上にわたって盗聴されていたことが明らかになった。日本も例外ではない。NSAの傍受対象リストには内閣官房、日本銀行総裁、三菱商事、三井物産が並んでいた。

自国の存在を明かさず、一方的に「光」を持ち帰る。ベーコンが『ニュー・アトランティス』に描いた「光の商人」の現代版だ。

もうひとつが「ボルト・タイフーン」だ。こちらの目的は、情報の窃取ではない。

米国の電力網・水道・通信・港湾といった重要インフラに静かに潜り込み、そこに「拠点」を築くことだ。データを盗むのではなく、有事の際に一斉に動けるよう、平時から深部に根を張っておく。CISAとFBIが2024年に公表した勧告によれば、その潜伏は数年単位に及ぶとされる。

戦争が始まる前に、すでに敵の心臓部に手を置いておく。引き金を引く必要すら、まだない。「先勝而後求戦」。まず勝ちを確実にしてから、戦いを求めよ。孫子が最善と呼んだ戦略の、デジタル実装だ。

FBIは2024年1月に一部の駆除を発表したが、セキュリティ企業Dragosの報告では2025年を通じても活動は継続中だ。重要インフラの深部には、永遠に発見できない侵入箇所があると専門家は言う。孫子の戦略は、今もリアルタイムで実行されている。

皮肉なことに、西側の対応は、ただただ「剛」的だ。AI・量子暗号・高度な検知システムへの投資、技術的優位の維持による安全保障。だが結果は見ての通りだ。ファイブアイズは同盟国さえ監視し経済戦争で優位に立つ、バレても止めない。ところが、ボルト・タイフーンでは孫子の土俵に引きずり込まれて手も足も出ない。「科学的知識が国家の力だ」という確信で構築した盾は、内側からすでに破られている。

英国紳士は、孫子の本質を理解できない

2500年前の古代中国に生きた孫子が、21世紀のサイバー空間を直接想像していたはずはない。

だが『孫子兵法』の原則は、時代を超えて精確に機能し続けている。それは彼の思想が「具体的な武器」ではなく「人間と情報の本質」を論じていたからだ。

そして、その思想の根底に「なるべく戦うな」という実に地道な知恵があったことを、私たちは見落としがちだ。戦国時代という、文字通り殺し合いが常態だった時代に、「リアルな戦争は下策だ」という哲学を磨き上げた東洋の思想家がいた。これは単なる兵法書の一節ではなく、極限まで研ぎ澄まされた平和への意志の表現だったかもしれない。

ベーコンの「知識は力なり」が帝国の論理として展開されたのとは、本質的に異なる出発点がそこにある。

さて、シティ・オブ・ロンドンの紳士たちには、孫子の「不戦而勝」は理解できないだろう。

征服しなければ「勝った」とは言えない人々に、戦わずに勝つという発想は、根本的に馴染まない。彼らにとって世界は、常に支配すべき素材として目の前に広がっている。ベーコンが「自然の拷問」と呼んだあの姿勢で、400年後の今も。

孫子が見たら、苦笑いするだろうか。それとも、やはり彼らはまだ「道を得ていない」と静かに観察するだけだろうか。

参考文献

Internet Encyclopedia of Philosophy, Francis Bacon (1561—1626)

著者:デイビッド・シンプソン、デポール大学

 ベーコンの生涯・思想・文化的遺産を網羅した学術的概説。帰納法・実験主義の哲学的位置づけ、大法官としての政治経歴、『ニュー・アトランティス』の内容を詳述する。「知識は力なり」の思想が近代科学革命と帝国主義的拡大の両方を支えた経緯を、批判的視点も含めて整理した標準的参照文献。

Wikipedia New Atlantis(2026/04)New Atlantis 

ベーコンの遺作『ニュー・アトランティス』の内容解説。理想国家ベンサレムが運営する「光の商人」システムの詳細、サロモンの家の構造、情報収集の一方通行性を説明する。ベーコンが構想した知識独占モデルの原典確認用として参照。 

あわせて読みたい

欧州議会(2001)Report on the existence of a global system for the interception of private and commercial communications (ECHELON interception system)

エシェロンシステムの存在、ファイブアイズ(UKUSA協定)の構造、冷戦後の産業スパイへの転用を正式に認定した欧州議会調査報告書。エアバスとサウジアラビアの契約交渉がNSAに傍受され米国企業に情報が渡った事例など、同盟国への経済諜報の実態を詳述する。

https://www.europarl.europa.eu/doceo/document/A-5-2001-0264_EN.html

The Intercept(2017/04/24)Japan Made Secret Deals With the NSA That Expanded Global Surveillance

スノーデン文書に基づくThe InterceptとNHKの共同調査報道。青森県三沢基地を拠点とするNSAの通信傍受システム(LADYLOVE作戦)の詳細、日本政府による5億ドル超の資金援助、および日本高官・機関への監視という二重構造を明らかにした。

The Intercept
Japan Made Secret Deals With the NSA That Expanded Global Surveillance Top-secret documents reveal the complex relationship the NSA has maintained with Japan over a period of more than six decades.

WikiLeaks — Target Tokyo(2015)

NSAによる日本政府・企業への傍受対象リスト(35件)を収録した公開文書。内閣官房、経済産業大臣、日本銀行総裁、三菱商事(天然ガス部門)、三井物産(石油部門)などが含まれ、貿易・エネルギー・金融分野での監視実態を示す。

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BBC News(2015/06/25)Snowden NSA: Germany drops Merkel phone-tapping probe

スノーデン暴露によるメルケル首相携帯電話盗聴問題を報じたBBC記事。メルケルによるオバマ大統領への直接抗議、「友人同士のスパイは許されない」発言、および「シュタージの手法と同じ」という表現を記録する。

BBC News
Snowden NSA: Germany drops Merkel phone-tapping probe Germany drops an investigation into alleged tapping of Chancellor Merkel's phone for lack of data from the US National Security Agency.

CCDCOE(2011)Sun Tzu and Cyber War 

ケネス・ギアーズによるNATOサイバー防衛センター(CCDCOE)の論文。孫子の『孫子兵法』をサイバー戦の文脈で体系的に分析し、「欺瞞」「知彼知己」「先手必勝」の各原則が現代のサイバー空間にどう適用できるかを論じる。孫子とサイバー戦を結ぶ学術的枠組みとして広く参照される基本文献。

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CCDCOE CCDCOE

NDU Press / Joint Force Quarterly 73(2014)Sun Tzu in Contemporary Chinese Strategy 

日本の防衛研究者、太田文雄による論文。現代中国の軍事戦略に孫子の思想がいかに深く浸透しているかを実証的に論じる。中国人民解放軍(PLA)が孫子を全将兵の必修教材とし、「三戦」(心理戦・輿論戦・法律戦)や「超限戦」の概念に応用していることを詳述。諜報・欺瞞・サイバー攻撃との接続を具体的に示す。

https://ndupress.ndu.edu/Joint-Force-Quarterly/Joint-Force-Quarterly-73/Article/577507/sun-tzu-in-contemporary-chinese-strategy

ISACA Journal Volume 1(2025/01/01)Winning the Cyber War With Leadership Lessons From Sun Tzu 

アブデレラ・アルザグルールによるISACA掲載論文。孫子の原則をサイバーセキュリティのリーダーシップに応用することを論じ、「知彼知己」の現代版としてMITRE ATT&CKフレームワークの活用を提案。ハニーポットやカオスエンジニアリングなど実践的な防御戦略と孫子の哲学の接点を詳述する。

ISACA
2025 Volume 1 Winning the Cyber War With Leadership Lessons From Sun Tzu In the high-stakes world of cybersecurity, effective leadership is more important than ever. In 2024, global cybercrime costs are projected to reach US$9.5 tril...

PRC State-Sponsored Actors Compromise and Maintain Persistent Access to U.S. Critical Infrastructur(2024/02/07)

CISA・NSA・FBI 合同勧告:米国サイバーセキュリティ・インフラセキュリティ庁(CISA)、国家安全保障局(NSA)、連邦捜査局(FBI)が連名で発出した合同勧告。中国国家支援型サイバー集団「ボルト・タイフーン」が、通信・エネルギー・交通・水道システムなど米国の重要インフラ全域に長期潜伏していることを確認。一部の標的環境では少なくとも5年間にわたりアクセスを維持していたと報告。既存の正規ツールのみを使用する「環境寄生型(Living off the Land)」手法による検知回避の実態を詳述した政府公式文書。 

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