「ディープ・ステート」という言葉を聞いた瞬間に、話を聞く気をなくす方は多いだろう。
無理もない。
この言葉は、政治的な武器として使われ過ぎだ。
右からも左からも、都合の悪い相手を攻撃するための修辞として消費され、「陰謀論」という言葉のように怪しいというレッテルを貼られてきた。
しかし、アメリカの政治史はそれらの言葉の遥か上を行く怪しい実態をさらけ出している。
今回、「ディープ・ステート」論ではなく、「二重政府」という学術研究を軸に、世界の怪しい実態を論考したい。
2008年、バラク・オバマは「チェンジ」を掲げて当選した。ブッシュ政権の拷問・無差別監視・イラク戦争を激しく批判し、有権者の期待を一身に集めた。
当選後、大統領に就任したオバマが実際に行ったことは何か。
グアンタナモ閉鎖の不履行。
ドローン攻撃の爆発的拡大。
NSAによる大規模監視プログラムの継続。
政府内部告発者への苛烈な起訴。
法的手続きを経ない身柄移送の存続。
批判していた相手の政策を、ほぼそのまま引き継いだのだ。
これは変節か、妥協か、それとも構造的な必然か。
タフツ大学フレッチャー・スクールの国際法教授、マイケル・J・グレノンはこの問いに正面から向き合い、2014年に一冊の学術書を著した。『National Security and Double Government』、オックスフォード大学出版局から刊行された、257ページの真剣な学術的分析だ。
グレノンとは何者か
グレノンは書斎の学者ではない。
米上院外交委員会の法律顧問を務め、国務省のコンサルタントとして政府内部に関わった実務経験者だ。1970年代から80年代にかけて議会で働いた彼は、フォード政権からカーター政権へと政権が交代する場面を間近で見た。党派が変わっても、国家安全保障政策の核心部分は変わらなかった。
その記憶が、2008年のオバマ当選後に蘇った。
また同じことが起きている。 グレノンはそう感じた。
これは偶然でも個人の意志の問題でもない。何か構造的なものがある。その確信が、本書の出発点となった。2014年にHarvard National Security Journalに掲載された論文が原型で、後に大幅に加筆されて書籍となった。
19世紀の憲法学者の洞察
グレノンが理論的な基盤として参照したのは、19世紀英国の憲法学者ウォルター・ベイジョットだ。1867年の著作『イギリス憲法』の中で、ベイジョットは英国政府を二つの層に分けて分析した。
ひとつは「威厳ある」部分。王室や貴族院のような、国民の感情的な忠誠心を喚起する象徴的な装置だ。もうひとつは「効率的」部分。首相・内閣・下院という、実際に政策を決定・実行する機関だ。
ベイジョットはこう述べた。
「威厳ある部分は大衆に印象を与え、効率的部分は大衆を統治する」
さらに彼はイギリス憲法の「効率的な秘密」をこう定義した。
「イギリス憲法の効率的秘密は、執行権と立法権の緊密な結合、ほぼ完全な融合である」
内閣はその「結合のハイフン、締め付けのバックル」として機能すると言った。
つまり、権力分立という教科書的な理解は幻想であり、実際の統治はこうした二重構造によって成り立つというのがベイジョットの洞察だ。
グレノンはこの枠組みを、現代アメリカの国家安全保障分野に適用した。
二つの政府が存在する
グレノンの主張はシンプルだ。
アメリカには事実上、二つの政府が存在する。
ひとつは「マディソン的制度」。
大統領・議会・裁判所という、憲法が想定した公式の政府だ。選挙で選ばれ、国民の前に姿を見せる。ベイジョットの言葉を借りれば「威厳ある部分」に相当する。名称は憲法制定者のジェームズ・マディソンに由来する。
もうひとつは「トルーマン的ネットワーク」。
1947年の国家安全保障法によって生まれた軍・情報機関・外交・法執行部門の常勤管理者たち、数百人からなる専門家集団だ。CIA、NSA、国防総省、国務省、FBIのトップマネージャーたちで構成される。名称はトルーマン大統領時代に冷戦型の国家安全保障体制が形成されたことに由来する。
トルーマン的ネットワークは選挙によって選ばれるわけではない。政権が交代しても彼らはそこにいる。専門知識を持ち、制度の記憶を蓄積し、危機対応の実務を握っている。新任の大統領がいかに改革を掲げて就任しても、実際の国家安全保障政策を動かすにはこの集団に依存せざるを得ない。
これは陰謀ではない、とグレノンは強調する。秘密結社でも、組織的な謀議でもない。構造的なインセンティブが生み出す、制度的な帰結だ。
マディソン的制度は、国家安全保障という複雑な専門領域で判断を下すのに必要な情報も、専門性も、継続性も持っていない。だから依存する。依存することで、実質的な決定権はトルーマン的ネットワークへと移行していく。その繰り返しの中で、二重政府は静かに定着した。
「チェンジ」はなぜ起きなかったのか
この構造から見れば、オバマの「変節」という見方自体が的外れかもしれない。
「チェンジ」を高らかに掲げ、ブッシュ政権を激しく批判した人物が大統領に選ばれた。
しかしそのオバマは就任直後から、トルーマン的ネットワークが蓄積した情報と論理の中に置かれた。「この政策を続けなければ、この脅威が現実化する」という専門家集団の助言に、反論するだけの情報も経験も、就任直後の大統領には持ちようがない。議会の監督機能はすでに形骸化し、裁判所は国家安全保障案件に踏み込まない。マディソン的制度はすでに空洞化していた。
グレノンはこの状態を「公的政府の空洞化」と呼ぶ。この構造にとって、変革を叫ぶ人物が颯爽と登場し、既存の政策をそのまま継承していく展開は、むしろ都合のいいものだったかもしれない。
2013年、スノーデンがNSAの大規模監視プログラムを暴露した後も、政策の根幹は変わらなかった。トルーマン的ネットワークの自己防衛機能が働いたからだ。大統領が変わり、スキャンダルが起き、世論が騒いでも、この層は動じない。そうした強靭さこそが、このネットワークの本質だ。
この後、じっくりと深掘りしたいのは、そのオバマとブッシュの連続性を批判する声がほとんど聴こえてこなかった理由だ。
民主主義という幻想の前で
グレノンの分析が秀逸なのは、見えない敵の構造を可視化しているからだ。
悪役がいない。誰かが意図的に操っているわけではなく、構造そのものが政策を決定している。責任の所在が拡散し、アカウンタビリティが消える。
国民は「大統領が決めている」と信じる。大統領は「専門家の助言に従っている」と言う。専門家は「制度の論理に従っている」と言う。誰も嘘をついていないが、誰も責任を取らない。
これが、グレノンの言う「二重政府」の本当の恐ろしさだ。
ならば、子ブッシュ政権の9/11後の判断とオバマ政権の継承の間に、具体的に何があったのか。次回以降その実態を、じっくり検証する。
参考文献
Walter Bagehot著 The English Constitution (1867)
19世紀英国の憲法学者ベイジョットが、政府を「威厳ある部分」と「効率的な部分」の二重構造として分析した古典的著作。グレノン理論の理論的基盤であり、現代アメリカの二重政府論の原型を提供している。

Michael J. Glennon著 National Security and Double Government (2014/10/08)
タフツ大学教授グレノンが、マディソン的制度とトルーマン的ネットワークの分離を理論的に分析した核心的研究書。ブッシュからオバマへの国家安全保障政策の連続性が、個人の意志ではなく構造的インセンティブによって生まれることを明らかにする。
https://global.oup.com/academic/product/national-security-and-double-government-9780190206444
Harvard National Security Journal (2014) National Security and Double Government
グレノン教授による二重政府理論の原型論文(書籍の基となった114ページの詳細分析)。ブッシュからオバマへの国家安全保障政策の連続性(グアンタナモ、ドローン、NSA監視など)を構造的問題として論じ、オバマ就任直後の政策継承の背景を具体的に指摘している。本エッセイの理論的根拠を補強する一次資料。
https://journals.law.harvard.edu/nsj/wp-content/uploads/sites/82/2014/01/Glennon-Final.pdf
Fletcher Forum (2016/09/13) Professor Michael Glennon on the Rise of the American System of Double Government
グレノン教授本人によるインタビュー記事。マディソン的制度とトルーマン的ネットワークの具体的な運用実態、およびオバマ政権における政策連続性の背景について詳細に語っている。

Tufts Daily (2015/01/01) Glennon discusses double government, problems of American bureaucracy
グレノン教授へのインタビューで、二重政府の日常的な運用メカニズムと官僚集団の特性をわかりやすく解説。スノーデン暴露後も政策が変わらなかった構造的理由についても言及している。

The White House / Obama Administration (2014/01/17) Remarks by the President on Review of Signals Intelligence
スノーデン暴露直後にオバマ大統領が行ったNSA監視プログラムに関する公式演説。改革を約束しつつ、プログラムの必要性を強調し、実質的な継続を示唆した内容。本文で触れる「スノーデン暴露後も政策が変わらなかった」点を、裏付ける公的記録。

The Bureau of Investigative Journalism (2017/01/17) Obama’s covert drone war in numbers: ten times more strikes than Bush
オバマ政権下のドローン攻撃をデータ集計した調査報道(パキスタン・イエメン・ソマリア対象)。オバマ期563回 vs ブッシュ期57回という爆発的拡大を数字で示し、二重政府下での政策連続性の具体例。

ProPublica (2013/07/30) Charting Obama’s Crackdown on National Security Leaks
オバマ政権下での国家安全保障関連の情報漏洩に対する司法省の取り締まりを時系列で追った調査報道。Espionage Act(スパイ活動防止法)を用いた起訴が、オバマ期に過去全政権合計を上回る7件以上に達した実態をデータと事例で示し、内部告発者への苛烈な対応を具体的に明らかにしている。本エッセイで触れる「政府内部告発者への苛烈な起訴」の客観的裏付け。




